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信州 井戸尻遺跡

2016年の4月に、信州、井戸尻の縄文遺跡を訪れました。資料館には、素晴らしい縄文土器がたくさん展示されていました。
 
4月10日朝、辰野のホテルを出て岡谷で乗り換え、井戸尻考古館がある信濃境駅に10時に到着。

1 信濃境駅

中央本線 信濃境駅, JR Shinano-sakai station


上諏訪と小淵沢の間、富士見町の八ヶ岳南山麓の駅です。

2 信濃境駅前

信濃境 駅前通り
 
 
八ヶ岳から南に向かうと、南アルプス、甲斐駒ヶ岳が見えます。
八ヶ岳と南アルプスの間に釜無川が、深い渓谷を削り取っていて、
釜無川へ落ち込むゆるやかな斜面を少し下ったところに、井戸尻遺跡があります。
 
3 1 井戸尻考古館への道
 
 
3 2 井戸尻考古館への道
 
甲斐駒ヶ岳を望む下り坂、左が井戸尻考古館で、信濃境駅から歩いて20分ほどです。
駅から考古館までの道は、花が咲き始める早春ということもあって、実に良い感じの道でした。

縄文時代、この場所に村がつくられた理由は、甲斐駒ヶ岳と八ヶ岳というすばらしい山を眺められる場所であること((1), p.185~)、および水が湧き出す八ヶ岳山麓の斜面であったことが考えられます。

国土地理院の地図 富士見町
http://maps.gsi.go.jp/#12/35.880288/138.275986/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0
 
井戸尻の縄文の村が栄えた5千~4千年前、関東東部から甲州、ここ井戸尻を中心に諏訪湖や伊那谷にかけて、きわめて多くの縄文遺跡が点在していて、地図的に『富士眉月弧』文化と呼ばれています((2), p.10-12)。

3 3 井戸尻考古館
Idojiri archaeological museum
 
井戸尻考古館には、大変多数の縄文土器などが展示されていました。
曽利式とか、曽利産の土器も多いですが、曽利は井戸尻の西に隣接した集落です((2), p.81)。
 

4 1 蛇頭半身半蛙
蛇頭半人半蛙(はんじんはんあ)絵文深鉢 曽利
A Jōmon pottery with snake-head and the mixture of frog and man, from Sori
 
土器には、蛇(矢印)、蛙、渦や目玉や弧(三日月)などの模様が生き生きと描かれていて、似たような模様が多くの土器で繰り返し造られているのですが、どれもみな少しずつ模様がちがっています。
模様の意味の解読がかなり進められていて、当時は科学以前の段階ですが、月の満ち欠けが季節や出産と関係あると考えられていたようです((2), p.31-59)。
 
曽利遺跡出土の「人面香炉形土器」も展示されていて、思ったよりも小さかったのですが、前面はかわいらしい女の子、裏面は死後の世界のおそろしい化け物を表しているようで、生と死が表裏一体であるということは、文明化以前の民族では強く意識されていたようです((3), p.30)。

数学や文字は無いのですが、これら土器のデザインは芸術的で、岡本太郎的というか、とてもパワフルで素晴らしいです。
 
現代の作品が何千年後に、これらの縄文土器に負けない価値を持って生き残れるのかどうか...
いつのまにか人間は科学技術無しでは暮らせなくなってしまいました。
けれども、科学技術も使い方次第で、人間を幸せにしてくれるとは限らないのではないでしょうか?

4 2 イモガイ形土製品
イモガイを模した?土製品もありました。
 
 
4 3 住居復元
復元された藤内期の住居(館内)

屋根裏部屋があって、食糧などを乾燥させながら保管されていたと考えられている((2), p.66)。 
 
SN3N0021 (2)
有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)復元展示品

『大きなものは樽形、小さなものは壺形をしている。竹器を模したようなものもある。平らな口唇と、その直下にめぐらした鍔(つば)のような凸帯。それに接して、箸でついたような小孔が空けられているのでこう呼ぶ。井戸尻文化を最も特徴づける器種であり、酒造器とみられる。
 数ある土器のなかでもことに精緻につくられ、磨き込まれた器膚は黒漆と赤色顔料で彩られている。小孔にはヤマドリの羽を挿したらしい。
 酒は主作物の精粋であり、折々の祭事にあたって神や精霊と人との仲立ちをするものだった。』((2), P.26)



館内の展示物は予想以上に豊富で、すっかり時間がたってしまいました。
電車の時刻も気にしながら、外へ出ます。


5 竪穴式住居

竪穴式住居

すき間だらけで冬は寒いでしょうが、地震が来ても2階が1階に落ちてくるような心配はない。
縄文時代、2~3千年もの間、この高原の寒い場所に人々が安定して生活できたのは、そのころの気候が暖かだったからではないかと思われます。

けれどもそれ以上に生活の安定をささえていたものがあります。
農業に適した形の石器が多数、このあたりの遺跡から出ています。
縄文時代は狩猟で、農耕は弥生時代からと学校で教わってきましたが、実は縄文時代にすでに農耕は行われていて、穀物から粉をひいて焼き、煎餅かパンのようなものも作られていたそうです((2), p.13-30)。


繩紋時代, Jōmon pottery, Idojiri, Nagano
 
 
参考文献

(1)「縄文の思考」小林達雄, ちくま新書, 2008
(2)「井戸尻」第8集, 富士見町井戸尻考古館, 2006
(3)「縄文聖地巡礼」坂本龍一, 中沢新一, 木楽社, 2010
 
  
外部リンク

(1) 井戸尻考古館 http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri.html
(2) 釈迦堂遺跡博物館 http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shakado
(3) 八ヶ岳山麓の縄文文化発信 八ヶ岳jomon楽会 http://www.jomon-akuyu.com/information/
(4) 「日本文化基層の生と死をさぐる」 明治大学 http://sauvage.jp/activities/2186
 
 
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コメント

No title

かってにライブドアへ移動したので怒っていますか?

懲りずにまた来てくださいね。

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